「不定点観測」 - 不動産売買仲介営業のブログ

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千葉県柏市在住、埼玉県越谷市勤務。56歳の営業マンが、日常や業務について綴ります。

【株式会社北辰商事】
埼玉県越谷市新越谷2-12-9 ポルトゥーナE号室
TEL.048-993-4781

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キャッチャーミットをオーバーホールした。3月9日に発注し、7月31日に出来上がって戻ってきた。元号が平成から令和に変わった。

ウェブとベルト金具が交換された。捕球面の「あんこ」(中に詰められた綿)が大胆に取り除かれ、外周が真新しい紐で巻き直されている。本体の革の洗浄や着色はお願いせず、傷や汚れはそのまま残してもらった。

左手を入れる。手のひらとの一体感が生まれている。右手の拳で捕球面を叩いてみた。ぱん、と乾いた音がリビングに響いた。素手で包み込むような感覚がある。「ああ、ようやく」と思う。

 

そのスポーツ店は古い大規模団地の敷地内にあった。春先の暖かな日に、「グラブを修理・再生します」と大きく書かれた文字を目にした時、どうしてもミットを直したくなった。理不尽なほど強烈に。天からの啓示を受けたように。数年前に本人が亡くなった時にも、そんなこと思いもつかなかったのに。もう決して使うことのないあのミットを。

「香川モデル」はクローゼットの奥で牡蠣のように眠っていた。翌日、店に持ち込んだ。

 

 

1979年、香川伸行はバランスボールのような腹を揺らして春夏の甲子園で躍動した。手首の効いた柔らかなバットコントロールで本塁打を量産し、そのまま秋のドラフト2位で南海ホークスに入団する。

 その年に中学生になった僕は野球部に入部した。運動好きの肥満児は正座ができなかった。3年間を五番手捕手兼スコアラーとして終えた。香川のようなわけにはいかない。練習試合にも出してもらえなかった。

 高校でも野球を続けた。2年生になって正捕手になれた。打順は4番だ。つまり進学先は強豪校ではなかったのだ。

 

新チームになって初めての練習試合で、2打席目にスタンドインを打ってしまった。振ったところに球が来た。インパクトの瞬間に感触がないというのは本当だ。敵味方全員が驚いた。相手のベンチには中学の同級生、正捕手だったアキラ君がいた。最初で最後のホームランの思い出。

 

キャッチャーミットはずっと、一学年上のIさんの「お下がり」を使っていた。「このミット、験がいいんだぞ」彼はそう言って僕に譲ってくれた。Iさんは入部してすぐに正捕手になった人で、2年生になって自分のミットを「大矢明彦モデル」に新調した。

 「お下がり」は使いやすかった。ポケットが深くて球の収まりが良く、ぴしっと気持ちの良い音が鳴った。深いオレンジ色で、ところどころにIさんの縫合の跡があった。

秋の大会で銚子商業にコールドで負けて(大川隆と片平哲也だ)、2年生でのシーズンが終わった。「お下がり」にも傷みが目立つようになった。僕もミットを新しくしようと思った。

 

どうして自分が「香川モデル」に決めたのか、今となっては全く思い出せない。1983年に香川は自身のベストパフォーマンスを残したが、世間は彼の野球の実力ではなく、膨張を続ける胴回りばかりに注目した。彼も彼で自覚的に道化を引き受けているように映り、このころはあまり好きになれなかったような気がする。

 それに、既製品で十分だったはずだ。ただでさえ高価な硬式用のミットだ。建具職人の家庭で、経済的に恵まれているわけではなかった。それでも僕はオーダーメイドに拘った。若かったのだ。数社のカタログを取り寄せて検証した。

飯田橋の「聖地」までは一人で出かけた。3学期、中間試験休みの日曜日。外房線と総武線の各駅停車を乗り継いで約3時間だ。駅からは『報知高校野球』から切り抜いた地図を頼りに歩いた。財布にはお年玉と年賀状配達のアルバイト代が入っていた。

その野球専門店は緩い上り坂の途中にあった。間口が狭くて奥行きのある店だ。口の開いた段ボール箱があちこちで通路を塞いでいる。無数のグラブやスパイクが左右の壁に所狭しと並べられ、鈍い光沢を放っている。手入れ用のオイルの匂いが鼻腔をくすぐった。雨が降っていたが店は混んでいた。

店員に声をかけた。厚い生地のエプロンを着けた男性だ。彼は僕の話を聞くとオーダー用紙を持ってきた。そこに住所と名前と電話番号と、僕の左の手形を鉛筆で書きつけた。僕はずっと気後れしたままだった。

「3月の終わりには送れると思うよ」彼は言った。

 

 

 8月1日の早朝に、急いで病院に行ってほしいと、実家の母から電話があった。81歳の父が心臓の疾患で5日前から入院している。

父はベッドに腰掛けて呆けていた。個室に移され、太いベルトでしっかりとベッドに拘束されている。深夜に突然暴れたと病院から説明を受けた。止めに入った看護士が軽いけがをした。

入ってきた僕をしばらくぼおっと見つめる。「仕事休ませちまって悪いな」小さな、掠れた声。「何にも憶えてねえんだ」

 

 その日から退院する8月16日まで、ほぼ毎晩父に付き添った。病院と会社と自宅を廻る。1日200㎞くらい運転した。

僕が到着しないと父が寝ないので、午後8時半には病院に着くようにした。父が寝付くと仄暗い病棟の集会室でコンビニの弁当を食べ、ノンアルコールビールを飲んだ。看護士がやってきて、日中の父の様子を教えてくれた。

ストレッチャーのような細く低い簡易ベッドを窓際に置いて横になる。生まれてこの方、父と枕を並べたことはなかったと気付く。眠りが訪れるまで、薄暗闇の中で来し方行く末を思った。高を括って先延ばしにしてきたあれこれが、一気に現実となって押し寄せてくる予感がした。父の静かな寝息が聞こえる。

 

 

3月末に「聖地」から届いた「香川モデル」はフライパンのように固かった。ぽっかりと口を開けたまま、びくともしない。毎晩風呂場で蒸気を当て、タオルで巻いて布団の下に入れて眠った。木槌で何度も叩いた。しばらくして革は幾分柔らかくなったが、上手く「型」ができない。なにしろ「あんこ」が多いのだ。

エラーが増え、捕球時の音は鈍く、ミットのチームでの評判は低かった。「せっかく苦労して買ったのはわかるけど」エースが言った。「試合では使わないでくれ」

 

7月16日がやってきた。月曜日。千葉県予選の1回戦だ。第3試合だった。前の試合は船橋法典-銚子西という好カードで、法典の投手はのちに日ハムに入団した松浦宏明だ。ストレートがべらぼうに速かった。

快晴だ。ベンチに入ったのは午後1時半を回ったころで、太陽は中空に達していた。グラウンドキーパーの放水が作る淡い虹がきれいだと思った。試合は0-4で、あっという間に負けた。今となっては「異常に暑かった」という皮膚感覚しか残っていない。

 

父も他の親御さんたちとスタンドで応援していた。学業には全く興味を持たなかった父だが、僕が高校でも野球を続けることを喜んだ。教育熱心な祖母(家長で絶対的存在だった)は当時入部に激しく反対したが、父が私といっしょに土下座して折れたのだった。

 

この試合でも最後まで「お下がり」を使った。「香川モデル」はさすがに出せなかった。

 

 

 退院前日の朝、父はいつものように5時台のテレビニュースを観ていた。ベッドの上で胡坐をかいている。スポーツのコーナーが始まり、前日に習志野高校が負けた試合を報じ始めた。僕も着替える手を止めて無音の映像を観ていた。

「お前、あの時のミットまだ持ってる?」と父が急に言い出した。僕が驚いていると、すっとイヤホンを外してこちらを振り返る。

「やっとレギュラーになって、東京まで買いに行ったやつ。いつまでたっても固くてよお。俺が木槌、作ってやったろう?」

 少し、うれしそうな目をしていた。

 

すとんと腑に落ちて、目から鱗が落ちて、溜飲が下がった。読み終えてとても清々しい気持ちになった。ちょっと泣けた。どうしてだろう?
 
タイトルに「文章術」とあるが、いわゆる文章指南の本ではない。書き方のテクニックには全く触れていない。
 
書いた文章を読んで喜ぶのはまず自分自身である、ということが書かれている。
 
評価は他人が決める。称賛もあれば批判もある。だけど、自分で読んで面白くなければ、書くこと自体が無駄になりますよ、と著者は説いている。
 
もちろんそれは甘い自己肯定ではいけない。
例えば「随筆」をどう定義するか。
或いは「趣味」をどう定義するか。
と著者は問う。
 
一つひとつの単語について深く考え、自分なりのブレない定義を持つことが大事だということ。その言葉の実態を理解できなければ、他人に意味を伝達することはできない。
 
もっと言葉に対して真摯たれ、ということだと思う。
書くことは、生きることだ ―
村上春樹みたいになってきた。
 
私は著作家ではないが、とても励まされた。もうターゲットは想定しなくてよいのだ。自分が面白いと思うことを書く。それゆえにもっと良い読み手にならなければならないけれど。
 
著者は長年コピーライターとして第一線で活躍された方だ。「ほぼ日」上でお名前は拝見していた。
平易な文体で書かれ、短時間で楽しみながら読めるように構成されている。コラムとして挿入されている「広告の書き方」とか「履歴書の書き方」だけでも非常に面白いです。興味のある方はぜひお手に取ってみてください。
今日も、先月書けなかったこと。

6月22日(土)、NHKホールでのスガシカオさんのライブへ行ってきました。
2015年か16年のライブを仕事でキャンセルしてしまったので、夫婦揃って出かけるのは2009年の「FUNK FIRE」ツアー(新木場だったはず?)以来です。

仕事を前倒しで無理やりたたんで、地下鉄を乗り継ぎ、雨の中をダッシュ!
スガさんのことはデビュー時から応援していますが、なかなかライブに行けないのが残念です。水曜日(不動産業界の定休日ですね)に首都圏でやってくれー笑

新しいアルバム「労働なんかしないで光合成だけで生きたい」の10曲はもちろん、過去の曲も存分に堪能することができる構成でした。
いっとき、「バラードはやらん!」なんて時期もありましたが、個人的にはファンクとバラードの混在が好きです。
というか、ジャンルに関係なくたぶん彼の詞、彼の表現が好きなんですね。短編集を読んでいるかのようです。
リアリズムあり、シュールあり、独白あり。とても文学的だと思っています。
 
これまでの私にとってのベストアクトは、何時かの「オーガスタ・キャンプ」、夕暮れの千葉マリンスタジアムで聴いたアコースティックの「黄金の月」だったのですが、今回の「月とナイフ」もすごく良かったです。震えました(ご本人もどこかで自画自賛しておられますね!)。
 
それと、3階から観ていても、確実に身体が分厚くなってる!笑 メンバーから「どこ目指してるんですか」なんて揶揄されていましたが、節制しているのがよく解りました。
'66年生まれの同い歳。これからも応援します。

6月は更新がほとんどできなかったので、1か月分まとめてメモ。

月間100㎞にはしないと。あと2回ほど機会を増やせば、何とかなりそうです。

 

普段は6分/㎞のペースで10kmほどを淡々と走りますが、これからは何回かを負荷を上げた練習、ストレスのかかる練習にしないといけないと考えています。

インターバルやペース走を入れたり、もっと長い距離を走ったりとか。このままですとスピードアップは望めません。

例えばこれはある日の5分/㎞のグループランに初めて参加させていただいた時のものですが、9㎞までが私の限界でした。これを最後まで付いていけるようになるのが直近の目標です。

 

それからフォームの改善。文章や動画をあたって腑に落ちたものを取り入れて、身体の反応を検証しつつ手探りでやっております。肩甲骨の使い方の認識が180度変わったり。

プラス体幹の強化。

 

そうそう、件の取手市の東欧系の女性が、とうとう笑顔で会釈を返してくれました。ピース。継続は力なり。

父親が入院したり、夫婦で10年ぶりにライヴに出かけたり、自分が53歳になったりしているうちに2週間が経ってしまいました。

もっと意識的に時間を作らないと、ここを更新することが難しいと痛感しております。

 

25日の火曜日はルナークスさんの取り計らいで、川口市内の伊藤超短波株式会社さんにお邪魔しました。伊藤さんはプロのアスリートも信頼を寄せる治療器メーカーです。

 

2時間のうち前半2/3はプロトレイルランナーの小川壮太さんによる講義と実技です。月に一度、一つのテーマに沿って行われます。現役のアスリートから最新の理論とトレーニングを学べる貴重な時間。私のような底辺ランナーにはもったいない内容満載の90分なのです。

 

今回は室内を使っての「コア・トレ」でした。体幹がいかに大切か、目からウロコのお話がたくさんありました。

 

それから残り30分を使って、「ITO-InBody」で体組成を測定していただきました。

「InBody」はいつものジムにも置いてあって、アプリも利用していますが、「ITO-」はいわばプロ仕様です。もっと詳細に測定してくれます。

 

結果。

想定以上に良くて、びっくり。

「調節すべき」筋肉量も脂肪量も体重も「0kg」笑

内臓脂肪が心配だったのですが、低レベルでほっとしました。
ただしマラソンランナーとしてはもう少し体重が軽いほうが理想的なのだと思います。体幹を中心に上半身の筋力を上げて、なおかつもう2kgくらい落ちると理想に近づくのでしょう。

精進します。って、「どこ目指してる?」(弊社の店長談)